Maroizm

プロトスターCEOのコラム

フランケンシュタインは三度生まれる -おこもりの捉え方-

f:id:maroizm:20200506171023j:plain

Photo by Marc Szeglat on Unsplash

の我々のように全員がこもっていた。そして、全員が出られるものなら出たいと考えていた。ナポレオンの場合、ロシアに負け失脚。エルバ島に閉じ込められていた。しかし、彼の野心は未だ消えず、再び天下を取ることを狙っていた。1815年2月、ついに彼のエネルギーは爆発し、エルバ島を脱出。

 

それから2か月後、インドネシアで本当にエネルギーが爆発。地球深くにこもっていたマグマはついに地上上空に解き放たれる。そう、タンボラ山が大噴火を起こしたのだ。

 

さらにそこから2カ月後、ベルギーで雨が降る。このせいで道がぬかるみ大砲の移動に想定以上に時間がかかることになる。このため、ナポレオンは戦闘開始を9時ではなく13時に遅らせる。この判断が彼の運命を狂わせる。これ数時間のズレにより、イギリスやオランダなどの連合軍にプロイセン軍の来援が間に合うのである。これが彼の敗因である。

 

ナポレオンはこのワーテルローの戦いにやぶれたことで、南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉され生涯を終えることになる。マグマがこもったままならば、彼は戦争に負けず歴史も変わっていたのかもしれない。

 

さて、この雨は偶然だったのか?

 

もちろんたまたま雨になったのだろう。しかし、この年は特に雨の多い一年でもあったのだ。もちろん原因はタンボラ山の噴火である。グローバル化の遥か前から世界はひとつであり、人類はどんなに合理的に動いているようであっても自然の摂理からは逃れられないということなのだろう。

 

後に1816年はYear Without a Summer"夏のない年"と呼ばれることになる。そう、このひどい憂鬱とした天気が続いたせいで、今日の主人公もこもるしかなくなったのだ。

 

マン派の詩人、バイロンはひどく特徴的な人物で、貴族として生まれ、恋愛に明け暮れ、多くの素晴らしい詩を残しわずか36歳でこの世を去ることになる、まさに疾風のような人生を歩んだ人物である。ちなみにゲーテをして、今世紀最大の天才と彼を称している。

 

そんな彼は逃げに逃げていた。そう、あまりにも恋愛に明け暮れた結果、逃げざるを得ない状況になっていたのだ。結婚し子どもが出来た直後に不倫をし、異母姉との間に子どもを産み、並行して同性愛疑惑があったと記載すれば、なんとなく逃げなければならない状況は想像できるだろう。一方でナポレオンが世界をかけて戦っていたような時代に、こういうことで逃げていた人もいたということである。

 

そんな彼は最終的にスイスのレマン湖に一軒の別荘を借りることにした。天気がよければ最高に気持ち良い場所ではあるが、残念ながらこの年は夏のない年。このせいで彼はこもることを選び、“事実は小説より奇なり”というような歴史的な偶然が重なることになる。

 

(ちなみにこの“事実は小説より奇なり”という言葉は、バイロンの『ドン・ジュアン』で使われた言葉である。我々凡人は知らない間に天才の発明を使用しているものだ)

 

凡人と言えば、急に個人的な話で恐縮であるが、私の最大の弱点はホラーである。ギリギリの資金繰り、混乱する現場、大幅に延期する開発、などなどに対しては耐性があるのだが、こわい話は一切駄目である。そんな私がこの歴史上”幽霊会議”と評される夜の出来事をここで記載するのは、そんなに気が進むものではない。

 

荘の名前をとって"ディオダディ荘の怪奇談義"とも呼ばれる会議に参加したのは、5人であった。まずはバイロン、そして彼の主治医ジョン・ポリドリ、バイロンの愛人でその時バイロンの子を身篭っていたクレア・クレモント、その義理の姉であるメアリー・ゴドウィン、そのメアリーと不倫関係であったパーシー・ビッシュ・シェリーである。まるで舞台の登場人物のような絡み合った関係の人々が、憂鬱な雨の中、ひとつの別荘にこもったのである。

 

バイロンが詩を読み、それに触発されたシェリーが大声で叫びながら倒れるなど幽霊会議に相応しいドタバタが起きたあと、バイロンは一人ずつゴースト・ストーリー、つまり怪談話を書こう、と提案をするのである。(つまり天才バイロンと世の中の修学旅行生が夜に怪談話をするのは全く同じ構図である。なんなんだろう?)

 

この幽霊怪談をきっかけにメアリーがコツコツと書いて完成させたのが『フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス』である。そう、あの怪物、フランケンシュタインはこの幽霊怪談をきっかけに誕生したのである。まずは小説として。

 

のフランケンシュタインであるが、タイトルに”或いは現代のプロメテウス”とある。プロトスターの代表としては同じ「Pro」が付く以上、ギリシャ神話に脱線をする権利というものがあるだろう。まずプロトスターは分解すると、pro(前に)+star(星)で"生まれたばかりの星"を指す宇宙用語である。そしてプロメテウスはpro(前に)+"mētheus"(考える者)で「先見の明を持つ者」という名の神である。

 

彼は、ギリシャ神話全能の神(といいながら奥さんに怒られたりすぐ嫉妬するような)ゼウスの反対を押し切り、人類に天界を"火を与えた神"として知られている。人類はこのプロメテウスの火をつかい文明を構築し繁栄の礎とした。しかしゼウスがそもそも反対していたように、同時にこの火の力によって人類は戦争などもはじめるようになってしまうのである。

 

フランケンシュタインもまた人類によって生み出された英知であると共に、共存の仕方を間違えれば災いにもなる存在であるということで、このタイトルにしたのであろう。小説フランケンシュタインは、悲劇として描かれた。

 

ちなみに”プロメテウスの火”は現在では、原子力の暗喩として使われることが多い。ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎先生は、まさにそのまま『プロメテウスの火』という本を出している。原子力はまさにプロメテウスの火と呼ばれるに相応しい功罪持ち合わせた存在だ。

 

腕アトムは、そんなプロメテウスの火を動力に動き回るヒーローである。そのアトムの世界には、ロボット法なるものがある。その法律の着想になったアイデアは、SF作家アイザック・アシモフのロボット工学三原則である。これは非常に名高く多くの人が知っているだろう。それは下記の三条からなる。

 

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することで、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし、第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条 ロボットは自らを守らなくてはならない。ただし、それは第一条、第二条に反しない場合に限る。

 

このロボット工学三原則であるが、これは人類にロボットはこわくないよ、人類を脅かさないよ、ということを伝えるために作られた原則である。アシモフは人類自らが創ったロボットや人造人間にいつか滅ぼされるのではないか?という恐怖のことを”フランケンシュタイン・コンプレックス”と呼んだのである。

 

なぜか人類はイノベーションを起こし、新たな文明をも築く火を手に入れたとき、繁栄と共に恐怖を抱いてしまうようになっているようだ。ギリシャ神話は遥か遠くの過去の話のようだが、決して今でも色あせない理由はこの辺の普遍性にあるのだろうか。

 

フランケンシュタイン・コンプレックスを脱するために生み出されたロボット工学三原則は、今でも形を変え実際のロボット工学で応用をされている。フランケンシュタインはアシモフによりロボット時代の幕開けから、再び違う役割で誕生したのである。

 

イロンが夏のない年に幽霊会談をした時、まさかこれがきっかけでフランケンシュタインが誕生し、それが現在のロボット工学にまで影響を及ぼすことになるとは全く想像はできなかっただろう。ましてや、バイロンの激しい恋愛関係が更なる”事実は小説より奇なり”を生み出すことになるとも想像もしなかったはずだ。

 

幽霊会談の一年前、バイロンは一人の女性と恋に落ちる。このアナベラ・ミルバンクとの間で出来た子どもがバイロンにとって唯一の嫡出子となる。その子どもが出来てすぐにバイロンは妻から逃げ、浮気をし、幽霊会談までいくことになる。

 

さて、妻であるアナベラ・ミルバンクは非常に憤ることになる。(そりゃそうだ)そして彼女は子供に詩の勉強はさせない!数学を教える!と強烈に理系での勉強を進めることになる。そもそもアナベラ・ミルバンクは別名で平行四辺形のプリンセスと呼ばれるような数学的教養が高い女性であったので、娘に数学を教えるのは自然な流れでもあった。(平行四辺形のプリンセスとは何と素敵な称号だろう)

 

バイロンは天才詩人であったが、彼の唯一の嫡出子は数学者になったのである。彼女こそエイダ・ラブレス。”世界初のエンジニア”と呼ばれる女性である。彼女は後にコンピュータの父と呼ばれる数学者チャールズ・バベッジと師弟関係になり、その中で世界で最初のコードを書き残すことになる。このコードを実際に実行できるような機械が誕生するのは、さらに100年もの月日が必要になるのだが、彼女は先行してその概念を書き残した。

 

実は、彼女が本当に世界で一番最初のエンジニアであるかは様々な議論がある。しかし、彼女が当時だれよりもコンピューターの未来を見据えていたことを否定する者はいない。彼女が非常に偉大であるのは、全く世の中にコンピューターがない時代に、そもそもコンピューターそのものの概念を理解しただけでなく、その可能性をもっとも見出していたことだ。

 

コンピュータの父であるチャールズ・バベッジはあくまでも数学者として機械式の計算機までしか想像をしていなかった。それでもすごい。まだ19世紀も半ばの話である。そんななかで彼女は、いずれこのような機械が素敵な音楽を産み出すようになるだろう、とハッキリと書き残しているのである。いずれ機械が音楽を産み出すような時代がくるとは、、当時の世界の人にはまるで理解の範疇を超えていただろう。

 

ジョン・グラハムカミングによる「かつて存在しなかった最高のコンピュータ」というTEDがあるが、彼はこれを“ラブレスの飛躍”と呼んでいる。まさに彼女は現在のAIまで見据えた未来を見ているのである。19世紀において彼女は概念として非常な飛躍をしている。

 

天才詩人であるバイロンの想像力と数学者の母の影響を受け、ロジックを理解した上で遥か未来を想像できるという稀有な能力が生まれたのではないだろうか。間違いなく彼女が今生きていれば起業家になっただろうし、我々に更に多くのイノベーションを生んでいたことだろう。

 

どうであれ、彼女の時代から長い年月を得て、ラブレスの子孫(つまりエンジニア)たちは遂にAIを生み出すことに成功した。AIは実際に音楽を自ら産み出すようになったのである。彼女の想像の世界は、ここに現実の世界となった。

 

そんなAIはシンギュラリティの議論で語られることが多い。AIは人類に繁栄をもたらすと共に人類を破滅に追い込むのではないか?この恐怖。そう、これはまさにフランケンシュタイン・コンプレックスである。フランケンシュタインはAIを通じて三度の誕生をしたのである。

 

イロンという男は、一方でフランケンシュタインを、一方で実子を通じて世界で最初のエンジニアを生んだ。まさに事実は小説より奇なりである。一人の芸術家の恋愛とおこもりが、結果、現在のAIまでつながるのである。

 

私はアートが好きだが、まるで未来のイノベーションなど考えもしていない一人の芸術家が、様々な偶然と長い時間を煮込んで次のイノベーションの土台を創り上げるかもしれないと思うと非常に面白いものがある。イノベーションは狙ってできるものばかりではないようだ。やはり何事も余白というものは大切である。

 

 

(余白)

 

 

コロナを通じて世界中で多くの人がどこかにこもっている。いま、この瞬間に100年後のイノベーションにつながる何かが生まれているのだ。イノベーションを生むぞと思ってこもる者、激しい恋愛から逃げまどってこもる者、露とも自身の行動が次の世代のイノベーションにつながるとは知らない者。そんな中なら次のイノベーションの種が生み出されるのだろう。そう思うと長いおこもりも悪いことばかりではないなぁ、そう感じながら最近は過ごしている。

戦略から兵站の時代へ

 

f:id:maroizm:20200413114314j:plain

Photo by Guillaume Bolduc on Unsplash

来であれば歴史の小話を紹介するだけのコラムであるが、スタートアップ業界が再び変わる時期であるので、真面目にスタートアップに関連する話題を取り上げたい。

 

と、偉そうに始めたが、いつも自身の”無知の知”を思うとコラムを書く手が遠のいてしまう。そんなこんなで1年程度コラムを執筆できなかった、と言い訳を記載したところで、この”無知の知”で有名なソクラテスから話をはじめよう。

 

ソクラテスであるが、彼が弁論で相手を打ち負かすのはイメージができる。しかし、武器を振り回している姿は想像できない。ただそんな彼もアテナイの市民であり、当然のように戦争に参加している。そんなソクラテスによる珍しく哲学的ではない発言のひとつに下記がある。

 

戦いにおける指揮官の能力を示すものとして戦術が占める割合は僅かなものであり、第一にして最も重要な能力は部下の兵士たちに軍装備をそろえ、糧食を与え続けられる点にある

 

そう、つまり兵站である。戦争には武器弾薬、水食糧などが必要であり、スタートアップにはお金が、とにかく手元のキャッシュが必要なのである。ソクラテスが兵站の重要性を語っていたとは、なかなか興味深い。

 

スタートアップの経営者と話をしているとだいたい”戦略”の話になることが多い。その内容が真に戦略レベルなのかはさて置いて、トップは戦略を考えるものだと相場が決まっている。それは下記のような一般的な図にも表れている。まさにピラミッドの頂点が戦略で、そこから下に戦術、作戦などがあり、一番下に兵站がある。この図から見ても、トップは戦略を語るべき、という風になる。

f:id:maroizm:20200507120952j:plain

作戦ってあんまり誰も話題にしないですね~

この手の経営者は完全に2パターンに分かれている。1パターンは、兵站をまるで理解せず戦略を語っているタイプ。そしてもう1パターンは兵站を理解した上で、(別に兵站の話など触れず)戦略を語っているタイプである。この差がこのブラックスワン後の世界においては重要な差になっているのではないだろうか。

 

は兵站は戦略に従属せず、兵站と戦略は両輪であると思っている。つまり兵站はピラミッド構造の下部ではないと捉えている。イメージとしては下記である。

f:id:maroizm:20200413121720j:plain

ちなみに兵站の対義語は前線ですって。ま、前線の話の方が面白いですもんね。

戦略の良さにより兵站は大きく拡充する。そして兵站が立派になればなるほど、より大きく強い戦略を描くことができる。兵站と戦略を徐々に大きくしていくのがスノーボール的に経営を拡大するコツではないだろか。

f:id:maroizm:20200413121756j:plain

連続起業家は最初から兵站があるので、優れた戦略家をまずチームに入れる印象。

この最初の兵站を大きくするための奥の手が、VCからの調達などであり、そこで整った兵站をベースに素晴らしい戦略を描き成功すれば、次の兵站拡大のために資金を出すVCが増える、、そしていずれ株式公開をし広く投資家から更なる兵站強化のための資金を得る、というのがスタートアップ的な成功物語だろう。

 

くまでも戦略と兵站は表裏一体。どんなに最高の戦略家であっても兵站がなければ失敗することは歴史が証明している。最高の戦略家というと歴史上様々な人物がいるが、ここは戦史に歴然とした名を残したハンニバルを例としたい。

 

ハンニバルが歴史に名を残した戦いといえばカンネの戦いがある。これは古代ローマに大勝したもので、塩野七生女史のローマ人の物語にして“ローマがこれほどの敗北を喫したのは、このカンネの会戦が最初にして最後”という一文でもこの戦いのほどが知れる。

 

そんな最高の戦略家のハンニバルが対ローマ戦争に敗れるのは、戦争に負けたのではなく兵站が弱かったからである。本国カルタゴの非協力的態度により兵站が滞ったに対比し、同じくファビアン戦略(持久戦略)として名を残した古代ローマの将軍ファビアンは、豊かな兵站をもとにじっくりと持久戦略をとったのである。そして、この戦わずたた相手の消耗を待つファビアンの戦略が最終的な勝利を導いたのだ。

 

いま、スタートアップにおいて戦略から兵站の時代になった。兵站を無視して突っ走る時代は終焉した。それは好景気で、兵站を若干無視してもどうにかなった時代があったということだけである。

 

戦略を語る前に、そもそも足元の兵站がどのようになっているかまず把握し、そして対策をとる必要があるだろう。それは勝ち続けている先も同じである。時代の潮目が戦略重視から兵站重視に変化したのである。戦略一辺倒の経営では、どんな名戦略家であってもハンニバルと同じ運命になってしまう。

f:id:maroizm:20200413114313j:plain

偶然か必然か、古代ローマも現代アメリカも兵站(ロジスティクス)が強い。Photo by Nicole Reyes on Unsplash

”戦争のプロは兵站を語り、戦争の素人は戦略を語る”という名言がある。実際、今回のショックでもべらぼうに兵站が強い会社は余裕がある。だから別に今は攻める必要もなく、ただ持久戦略をとっている(もちろん、タイミングを見て攻勢できるよう水面下で情報収集をしたり、観測気球を上げたりしている)

 

我々スタートアップは、そもそもにして兵站が弱い。だからこそ、戦略の前にふりかえりたい。自社の兵站力を。結果的にコスト削減なのか調達をするのかはわからないが、まず状況の把握からスタートしたい。それはある意味、戦争の基本でもある。

 

ちなみに古代ローマの指導者予備軍の若者に必ず経験させる官職は、クワエストルという仕事である。和訳では財務官、会計検査官といわれる。ただこれは会計だけが仕事ではない。

 

軍団に必要なすべての物資の調達から、兵士たちへの給料の支払い、その他にも、戦闘の指揮以外の軍団運営のすべてが彼の肩にかかってくる。言ってみれば総務と経理の責任者であって、帰任後の会計報告も仕事のうちだ。このような任務を指導者予備軍の若者には必ず経験させる習慣のあったローマも興味あるが、戦闘指揮が任務の総司令官でも、現実を如実 に映す金の出し入れを経験してこそ、兵士たちを手足のごとく動かすことも可能になると考えていたのかもしれない。(ローマ人の物語III-勝者の混迷)

 

指導者予備軍の若者に兵站の実務を徹底したことが、巨大帝国の礎になったのは間違いない。そして戦争の基本中の基本にして最重要だからこそ、まず戦略をやらせる前に、この仕事を割り振ったのだろう。自軍の兵站がどのような状況になっているのか、それを徹底的に理解した上で戦略を練れるようになるために。

 

站が強い組織は、戦争に強い。上記に記載した通り、強い兵站はより良い戦略を実行することができるので、勝ちやすくなる。歴史的に振り返ると、実は戦略より兵站にイノベーションが起きた時に強くなったタイプがいるように思う。

 

例えばモンゴル帝国は典型的だろう。どうも馬上で果敢に戦うイメージが先行するが、冷静に考えてほしい。ユーラシア大陸史上最大の国土を保有できるほどの帝国を、兵站の革新なくやり遂げられるだろうか?

 

東では鎌倉幕府と戦い、西ではポーランドなどと戦っている帝国である。そう、モンゴル軍は軍事力が強いだけでなく、兵站力が飛びぬけていた。アウルクと呼ばれる移動可能な貯蔵所(ま、ゲルの国ですからね!)や、ジャムチと呼ばれる駅伝制度による情報伝達、小さいところでは羊肉を極限まで圧縮した携帯食の存在など、強い兵站があった上で、チンギスハンの圧倒的な戦略力が活きたのである。

 

著名なベンチャーキャピタリストであるベン・ホロウィッツの最新作は、企業文化について書かれた『Who You Are』であるが、ここでもチンギスハンが取り上げられている。こういう歴史的に大きく勝ち上がった人物を丁寧に探索すると興味深い事象がいろいろ出てくる。

 

ロシア遠征で兵站が弱いイメージのナポレオンも、もともとヨーロッパをけん制できた背景には独自の兵站があった。最低限の食料を四日分運ぶようにしたり、補給担当士官を重要視した組織を形成したり、師団の上に独自の兵站組織を有する軍団を持ったりなど、彼の柔軟的な戦略の陰には強い兵站があったのだ。ちなみに意外かもしれないが、ロシア遠征もナポレオンをして最大規模の兵站で臨んでいた。これで失敗したのはどちらかと言えば、戦略側の問題も大きいだろう。

 

f:id:maroizm:20200413114304j:plain

ジャムチはシベリア鉄道が開通するまで、ユーラシアで最速の情報伝達システムだったそうだ。この兵站力あっての戦略だ。Photo by Yang Jing on Unsplash

が長くなったが、兵站を無視しても戦略がまわる時代は終焉した。今回のショックは企業経営にとって非常に厳しいものがあるが、これを機に自社の兵站力をあげるチャンスでもある。逆に既に独自の兵站力を有しているスタートアップには、競合と差を広げるまたとない機会でもあろう。

 

たまにはスタートアップのコラムに相応しく、スタートアップの関連から引用して終えたい。再び登場のベン ホロウィッツの『HARD THINGS』より。

世界は、平時に見たときと、日々命を賭けて戦わなくてはならないときとでは、まったく違って見える。平和な時代には、適合性、長期にわたる文化的影響、人の気持ちなどを気遣う時間がある。しかし、戦うときには、敵を倒し、部隊を安全に連れて帰ることがすべて

とにかく、時代は変わったのである。

なぜユニコーンは絶滅したのか? -資金調達のリスク-

じめてユニコーンを見たときは流石に感動した。なるほど、一角獣と呼ばれるわけである。馬そのものの胴体に、頭から立派な角が一本生えている。その角が思ったより長くて鋭いもんなのだな、というのが素朴な感想であった。色も純白で綺麗なものなのだが、残念ながら獰猛な性格なので乗って散歩ということはできなかった。散歩したかったなぁ。

 

などという話は、当然にして嘘である。ユニコーンという動物は想像上の生き物とされているからである。モデルになった動物の話はいろいろあるが、とにかくベースは想像上の動物である。

 

て、ベンチャー業界で“ユニコーン”というと、全く別の意味になる。それはとてつもなく大きな成功を“しそうな”ベンチャーを指す言葉になるのだ。はじめて大きな成功をしそうなベンチャーのことを“ユニコーン”と呼ぶと知った時、命名者は相当に皮肉が上手い人物なのだなぁ、と感心してしまった。

 

ユニコーンだが神話上、どのような話が残っているかご存知だろうか?神話では“ある”ことが原因で絶滅してしまうのである。ここで出てくるのは、ノアの箱舟である。そう、あの洪水を前に世界中の動物を乗せた船の話である。

 

ノアの箱舟という話はキリスト教の聖書で有名だが、同じような話は世界中で残っており、有名なところではシュメルの洪水神話やギルガメシュ叙事詩でも語られている。なぜ世界中で大洪水の話があるのかは世界の七不思議だ。

 

アの箱舟における主人公は、その名の通りノアである。彼は予言で世界を覆う洪水が来ると知り、世界中の動物をお手製の箱船に乗せることを決意する。そして、いろんな動物を乗せるのである。

 

その時、ノアはユニコーンもまた乗せようとした。

 

しかしユニコーンは乗らなかったのである。なぜなら、ユニコーンは狂暴な上、その鋭い角があり無敵の動物だったからである。ユニコーンは船に乗るのを断った。そう、自身の力を過信し慢心になった結果、ユニコーンは絶滅してしまったのだ。

 

おお、なんたる皮肉。私はベンチャー業界でユニコーンの名を聞くたびに、この話を思い出す。慢心こそ、身を亡ぼすと。

 

業家から覚えておくべき人物の名前はあるかと聞かれたら、私はサミュエル・ラングレーを紹介している。なぜなら、彼の名前が知られていないからだ。彼が歴史に名を残せなかった、という事実こそ、起業家は知っておくべきなのだと思う。

 

彼は飛行機の発明者であるライト兄弟のライバルだった人物の一人である。ライト兄弟のライバルというワードで、ラングレーをなんとなく思い出した人は歴史&ビジネス通だ。さて、飛行機、それはイノベーションの歴史の中でも屈指のものである。この飛行機というとんでもないイノベーションを自転車屋の二人の兄弟が行うのである。ほとんど奇跡のようなものである。

 

私はいろんなピッチを聞くことがあるが、自転車屋で飛行機を創ろうとするくらい大きなことを言う人は稀である。そして成功する人には残念ながらまだ会えていない。1890年代も同じようなもので、ライト兄弟が世界で最も早く有人動力飛行に成功すると思っている人々はいなかった。自然なことだ。

 

それに対しラングレーは違う。彼こそ世界で最初に飛行機を完成させる人物だと認識されていた。条件が違う。彼はハーバード大学出身で既に著名な天文学者で、かのスミソニアン博物館の館長にまでなっていたのだ。そして何よりも1896年に無人飛行で1キロもの飛行に成功している。条件としては、今のベンチャー業界でも巨額の資金調達ができる。

 

そんなこんなで巨額の資金調達に成功したラングレーであるが、ライト兄弟に有人飛行で負けたのである。豊富な資金や人脈を持ちながら、自転車屋の兄弟に負けたのだ。WHY?なぜか?

 

ングレーの名前を知っている人はビジネス通だと述べたのは、サイモン・シネック氏による有名なTEDのスピーチ「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」でライト兄弟と比較の事例で使われているからだ。彼はこのTEDで「ゴールデンサークル」の話をしている。

 

(まだこのTEDを見ていないビジネスマンは、こんなコラムなど読まなくてよいから、先にそっちを見て欲しい。このコラムを通じてこのTEDを紹介出来ただけで満足だ)

 

この「ゴールデンサークル」でラングレーの失敗は、ライト兄弟のように「大義と理想と信念に動かされていた」のではなく「富と名声」を求めていたからだ。WHY(なぜやるのか)の内容が低レベルだからこそラングレーは失敗したのだ、となっている。なるほど、まさに慢心が彼の失敗につながったのだ・・・・

 

と、ここでコラムを終えれば手堅いだろうし、普通の記事ならそうするだろうが、(あくまでもこれは個人的なコラムなので)むしろここから歴史を交えて掘り下げたい。

 

にはラングレーに関する疑問があるのだ。

 

それは、なぜラングレーがWHYを失ったのか?である。私はラングレーが単純に「富と名声」を求めた人間とは思っていない。なるほど、ライト兄弟に負ける頃には富と名声を求めるようになっていたかもしれない。だが、最初はライト兄弟のように「大義と理想と信念に動かされていた」WHYを持っていたように感じるのだ。

 

ラングレーは、天文学者である。1886年に太陽の黒点に関する研究が評価され、全米科学アカデミーよりメダルを受けている。その評価もあり、翌年にスミソニアン博物館で館長に就任している。そんな彼が飛行機に興味を持ったのが1890年代も後半の頃である。彼は飛行機に夢中になり実験を繰り返している。最初はゴムを動力に飛行機を製作した。そして、徐々に小さな蒸気エンジンを使うものに発展していった。

 

この実験に実験を繰り返す頃のラングレーに、富と名声を求めている姿を感じられない。むしろ名声を既に得た学者が新しい分野を思いっきり楽しんで没頭しているように感じる。無人飛行で1キロの飛行に成功したのは、エアロドローム「No.5」である。名前の通り、5機目の作品である。そして「No.6」で1.5キロの飛行に成功。こういう風に実験に実験を重ねている。この頃は純粋に飛行距離や能力の探求に、理想に燃えていたのではないだろうか。

 

しかし、この後に変化が起こるのである。なにが起きたのか。そう巨額の資金調達である。

 

はお金を得て、もっともお金がかかる部品の開発を優先してしまった。それはエンジンである。エンジンは飛行機のコアのひとつなのは間違いない。私は航空学の素人なので、何もわからないが、動力飛行を目指すベンチャーを創業したとしたら、確かに動力部分であるエンジンにこだわるのもわかる気がする。結果的にラングレーは当時としてはかなり強いエンジンの開発に成功してしまう。それは「5気筒で52馬力」というものであった。

 

豊富な資金をもとに優秀な人材を集めた結果、必要以上のものを完成してしまったことが裏目になる。彼のエンジンを積んだ飛行機は二回の実験を行い、二回とも無残な失敗をする。52馬力という巨大なエンジンに対して、飛行機そのものが脆弱だったのだ。

 

そしてこの二回目の失敗のわずか9日後、ライト兄弟による歴史的な成功をおさめるのである。それもライト兄弟のライトフライヤー号はわずか12馬力で飛んだのだ!(52馬力もいらなかった!)

 

飛行思想の違いなど、単純なことはいえないが、もしラングレーが豊富な資金調達をしていなかったら、52馬力のエンジンを作れるようになる前に、何か別な示唆から実験を地道に進めていたのではないか。

 

起業をする上で資金調達はとても重要な要素ではあるが、資金調達にはひとつ大きな罠があるように思う。出来ることが増える分、WHYをかき消してしまう可能性もあるのだ。残念ながら、この手の話は現在でもよく聞く。資金調達には、契約書云々というテクニカルなレベルとは別次元のリスクがあることは、少ない経験からも私から起業家にアドバイスできる。

 

後にラングレーの名誉をもう少しだけ回復させておきたい。そもそもライト兄弟がなぜ飛行機を設計するに至ったか、そのきっかけを知っているだろうか?それはラングレーの無人飛行機の成功を新聞で読んだからだ。彼の無人飛行機の実験を知り、ライト兄弟は自分たちも工夫すればできるのではないか?こうしたらいけるのではないか?などと夢に火を灯したのである。

 

そもそも、スミソニアン博物館で館長という名誉まで得たのちに新領域でチャレンジしたラングレーを私は称えたい。失敗したかもしれないが、まさにナイスチャレンジではないか。彼のナイスチャレンジが、ライト兄弟を歴史的成功に導いたのだ。

 

そう思うと、チャレンジャーに失敗などないように思う。確かに失敗した個人の名前は残らないかもしれない。下手すると悪評だけが残るかもしれない。しかし、いずれその失敗をも糧にして、成功する挑戦者が出てくるだろう。なるほど、そう思うと起業家は動物のユニコーンとは違い絶滅はしない。チャレンジャーが出ていく限り、いずれどこかのチャレンジャーがその精神を受け継いで成功するのだから。

なぜ、わらしべ長者はサイコロを振るのか? -起業家の確率論-

日、前々から一度観たいと思っていた京都の都踊りを鑑賞することができた。”ヨーイサー”からの掛け声と共に始まり、とても華やかな舞台であった。春は桜吹雪だけでなく都踊りも舞う季節ということを学んだ。

 

そんな都踊りであるが、演目の中に”わらしべ長者”があった。あの、わら一本から物々交換を繰り返し、最終的にはお金持ちになるおとぎ話だ。都踊りでは「わら」→「アブを捉えたわら」→「みかん」→「長者の娘」といったように話が展開していった。

 

ずいぶん久しぶりにわらしべ長者を観たわけなのだが、この話が随分と印象に残った。というのも、私は目の前で多くのわらしべ長者(やその過程の人々)と会っているなぁ、と感じたからである。

 

は創業前後の起業家の資金調達の相談に乗ることが多いのだが、これは完全にわらしべ長者の始まりに近い。起業家が来て「こういうことをしたいんや!」と述べるのだが、本当にそれ以外になんにも持っていない。ただいるのは、私の目の前に座っている起業家だけである。

 

起業家には途方もないビジョンがあり、日本人離れした行動力があり、それを書いた計画書があり、そこには根拠などないと互いにわかっている事業数値が、形式美として記載されている。そしてこの起業家と気が合う投資家が、なーんにもないところにお金を提供するのである。

 

投資家の運が良いと、その起業家のうち一部は本当に実力があり、売れるサービスを創り上げていく。あれよあれよと資金調達を繰り返し、嘘から出た実のようなビジョンが本当に実現していくのである。その過程で人もお金もどんどん巻き込まれることになる。

 

Facebookを創業したザッカーバーグだって最初は3カ月85ドルのサーバーレンタル代からサービスを開始したのである。ザッカーバーグほどの成功ではないにせよ、今では雑誌やテレビに出るような起業家も、最初はポツンと一人や数人のチームの起業家としてスタートしてきたのは、随分とみてきた。起業家は、まさに現在のわらしべ長者ではないだろうか。

 

そんな感じで都踊りのわらしべ長者をつらつらと眺めていたら、ひとつ重要な点がわかった。どうも、わらしべ長者というと”物々交換”のイメージが強い。物々交換とわらしべ長者は同義語のようなものである。

 

しかし、よく観てみると、わらしべ長者において重要なのは、交換するモノではなく、交換をしているヒトであることがわかる。

 

主人公が心清らかな人物でなかったら、子どもに対して「アブを捉えたわら」と「みかん」を交換しなかっただろうし、その「みかん」を喉が渇いた女性に渡すこともなかっただろう。わらしべ長者の交換で重要なのは”ヒト”のようだ。

 

く考えたら現在の起業家は、一番最初に何とお金を交換しているのだろうか。わらではない(ピッチでわらを持ってこられても困る)。そう、いうまでもなく、起業家その人物自身である。シードの資金調達ほど、人物が重要なことはない。

 

起業家の武器は、誰もが考え付かないようなビジョンや行動力を示すことである。起業家自身がいかに魅力的な交換できる”わら”なのかが、重要なのだ。

 

その起業家が大きなお金や大勢の人を動かせるかどうかは、わら=起業家の魅力次第だ。起業家のビジョンや方向性、過去の行いを通じての信頼度などが評価されるのだろう。

 

業家のことをわらだなんて表現するなんて失礼だ、との声が聞こえそうだが、不思議なことに過去にも「人=わら」だよ、と喝破した人物がいた。

 

その人は単なるわらだとは言わず「人間は考える葦だ」と述べた。ほー、なるほど、つまり「考える葦」の考え方次第で、どんどんわらしべ長者になっていくのが、起業家という職業ということか。

 

わらと葦(あし)の違いは、ほぼない。上記の「人間は考える葦だ」との名言を吐いたのは天才哲学者パスカルだ。

 

パスカルという人は本当の神童である。1623年6月のフランスにて生まれた。ルイ13世の時代で、絶対王政が着々と進んでいた時代だ。

 

いきなり脱線するが、この翌年に宰相になったのがリシュリュー枢機卿。彼を敵役として描いているのが三銃士の物語である。なので、三銃士を思い出してなんとなく頭に浮かんだイメージが、この時代のフランスということになる。

 

(ちなみに更に脱線するが、リシュリュー枢機卿は三銃士では悪役だが、実際は非常に有能な政治家で「フランスを服従させ、イタリアを恐怖させ、ドイツを戦々恐々たらしめ、スペインを苦悩させた」という評価が残っている。彼がいたからルイ13世は絶対王政ができたのだ。いつか彼のようなやり手宰相についても書きたい。こういう人からは学ぶことが多い)

 

て、パスカル。幼い時から数々の神童っぷりを発揮し、16才で『円錐曲線論』という古代ギリシャの数学者アポロニウスの幾何学に関する論文を発表している。そして19才の時には、徴税官として税務計算で苦しんでいる父親のために歯車式の計算機を発明している。(なんという息子!)

 

この計算機で特許まで取得し、50台ほど試作しちゃうのである!結果的にはあまり売れず、このビジネスはやめたそうだ。そう、パスカルは天才哲学者というイメージと違って、意外に起業家的側面もあるのだ。

 

“シェアリング・エコノミー”

 

そう、今を時めくワードのひとつだろう。パスカルは、ピッチ風にいうと「馬車のシェアリング・エコノミーサービス」を展開したこともある。当時、馬車は貴族などが所有する高価なものであった。それを5ソルという安い運賃で誰でも乗れるようにしたのである。シェアリング・エコノミーの走りどころか、時代を考えると公共交通機関の走りのビジネスであった。

 

1662年にルイ14世から営業許可をもらい、まず馬車7両4路線で始めた。素晴らしいアイデアではあったものの、「兵士、近習、召使い、その他の労働者」の利用は禁止という規制が入ってしまい事業としては失敗に終わる。

 

(交通系のシェアリング・エコノミーが国の規制のせいでサービスが立ち上がらないというのは、どこかでも聞いたことがある話だ。本当に時代は進んでいるのかね?)

 

うであれ、パスカルは自らも考える葦として、その能力を社会と幅広く交換し、様々なことに挑戦していたことがわかる。哲学者としてだけでなく、その能力が及ぶ範囲を自ら広げ、機械を発明したり、ビジネスを展開したり、本を書いたりしてきたのだ。

 

まさに、彼はそうやって自分の能力を多くの人々と交換し、そして多くの人々から信頼を得て歴史に名を残すような人物になったのだ。

 

そんなパスカルだが、本当に多くの人と交流をした。徳の高い人もいれば、そうじゃない相手だっている。ちなみにパスカルは『パンセ』を書き上げるくらいなので、非常に信仰深い人物であった。そんな信仰深い彼の友人に、変わった人物がいた。シュバリエ・ド・メレという名の貴族である。

 

彼は貴族として戦争などにも行ったことがあるような人物であったが、歴史的にはギャンブラーとして有名である。パスカルは天才であった。そしてシュバリエ・ド・メレはギャンブルに勝ちたかった。ここでひとつの交換が行われる。

 

パスカルはその「好奇心を満たす」ために、シュバリエ・ド・メレから「ギャンブラーの問い」を得るのである。結果的に、パスカルはある分野でも歴史に名を残し、シュバリエ・ド・メレは(彼の文句は歴史に残っていないことから)ギャンブルにその後ちょいちょい勝ったのだろう。

 

さて、ド・メレの質問はサイコロ博打に関する質問であった。ここでは数学的になるので質問を省くが、このサイコロ賭博の質問を、パスカルの友人であるフェルマーと共に往復書簡をしながら解くことになる。そして段々と数学的な解が出るようになり、今の”確率論”の世界を切り開くことになるのである。

 

(ちなみにここで出てくるフェルマーとは、あの”フェルマーの最終定理”の彼だ。彼についても書きたいが、残念ながらそれを書くには余白が足りないようだ)

 

スカルは多くの世界に様々な業績を残したが、人生でいうとわずか39年の年月であった。彼は自分の能力を積極的に打ち出し、多くの物事と交換をした。彼は事業では失敗などもしている。ギャンブラーとも付き合っている。しかし、そんなことをリスクとは思わず多くの人や物事に自分の能力で何ができるか真剣に考えてきたのだろう。

 

彼はリスクをものともせずサイコロを振り続けた。

 

パスカルという人はずいぶん多くの名言を残しているが、有名なものに「もしクレオパトラの鼻がもう少し短ければ、歴史は変わっていただろう」というものがある。そのクレオパトラの愛人でもあったカエサルは、皇帝を目指すにあたって「賽は投げられた」との言葉と共にルビコン川をわたるのである。

 

いつの世も成功の前にはサイコロを投げないといけないようだ。

 

り返るに、どうも世の中には2種類の人間がいるようだ。自らのわらを交換する人と、しない人だ。わらしべ長者だけ見ると、さも交換するに越したことがないようにみえる。

 

しかし、交換によって今まで持っていたものよりも劣る結果になることだってあるのだ。であるなら、現状維持のままで交換しないで自分を大事に守ろうとする人もいるのも理解できる。

 

それでも、人によってはサイコロを投げて、そのリスクを背負った上で、自らのわらをどんどん交換し広げていく人もいる。どちらかが正しいとかではなく、世界観や生き方の違いであろう。

 

がよく会う挑戦者たちは、そもそもサイコロを投げることをリスクだと感じていない。彼らがなぜリスクを感じないのか、話を聞いていると大体理由は下記のようなものだ。

 

①万が一、失敗しても、その経験は人生の糧になる。

②そしてもし成功したら、全世界をより良く変えることができるほどのインパクトを残せる。

 

つまり失敗のリスクはないに等しく、成功した暁にはとんでもないリターンが得られると考えているのだ。

 

パスカルは『パンセ』の中で、神を信仰するべきかに関して、次のような考えをした。どうであれ信仰すべきだ。もし神様が本当にいたら、永遠の命を得られる。逆に神様がいなかったとしても、別に何も失うわけではない。

 

この哲学的な考えは「パスカルの賭け」と呼ばれている。

 

不思議なことに、挑戦者が挑戦することにリスクを感じない理由と同じロジックのようだ。さて、読者が挑戦者なのであれば、今日もまたサイコロを振って、わらを交換しようではないか。

縦の信頼、横の協調 -良い上司と部下の関係-

Clipニホンバシビルに普段いるのだが、ここから東京駅周辺に用事があるときは、歩いて向かうことが多い。なんといっても散歩が趣味なのだ。(そう言うと凄くポケモンGOを勧められる)

 

そういうことで、日本橋から東京駅にとぽとぽと歩くわけだが、ルートとしては日本橋を渡らず、三越本館と三井本館の間を通って日本銀行の正面まで歩く。そのまま江戸桜通りを進み常盤橋を渡ると、今回の主人公の銅像がそびえ立っている。なぜここに彼の銅像があるのか、と前々から疑問であった。そして仕事柄、彼の銅像が近くにあるというのは縁起がいいもんだなぁ、と思っていた。

 

そう、渋沢栄一である。

 

日本における資本主義の父として、彼は500以上の会社の創設に関わっている。日本の起業家で大小合わせて彼の影響を受けていない人はほぼいないだろう。本当に凄いことだ。キャピタリスト的観点で考えても、個人で生涯に500以上の会社の創業に関わるなんて、想像が出来ない。

 

というか、実際どのようにして可能にしたのだろうか?どういうスキームなのだろうか?何からスタートしてどのように進めたのだろうか?どうも実務的な部分が気になってしまう。そのくらい大きなことを成し遂げているのだ。そもそも彼を教えた上司などがいたのだろうか。部下が渋沢栄一?全くイメージがつかない。

 

んな渋沢栄一を部下に持った上司から話を進めたい。上司の名前は、井上馨(かおる)。明治維新の志士である。個人的にはあまり志士というイメージは薄めで、どちらかというと大蔵大臣のような財務家のイメージが強い。それに、そもそもそんなに有名でも人気でもない。ただ彼の明治における財務全般に与えた影響は無視できないほど大きい。

 

井上馨は、長州藩出身である。山県有朋など苦労の末に立身出世という志士が多い中、彼は生まれがよく、エリート武士の家系であった。そういうこともあってか松下村塾では学ばず、藩校明倫館で学んでいる。(昨年、運がよいことに両方とも実際に見に行く機会があった!)さて、そんな彼が歴史に名を残す最初の出来事は、大使館の焼き討ちである。(まぁ、なんとも過激な)

 

この時、27歳。イギリス大使館焼き討ち事件のリーダーは、革命家こと高杉晋作。そして井上馨と共に実際に大使館に火をつける役目となったのが、後に初代総理大臣となる伊藤博文である。伊藤博文がこの時22歳。二人は年齢が近いこともあり、盟友になる。(経験上、火のついたプロジェクトを共にするとメンバーと仲良くなる。火をつけるプロジェクトでも仲良くなるようだ)

 

二人はその後、皮肉なことに焼き討ちした相手国であるイギリスに密航することになる。ここでも伊藤博文と一緒であった。(船内では、焼き討ちした先に密航することになるとは思わなかったよなぁ、的な会話をしたのは間違いない)

 

この密航の時期を描いた“長州ファイブ”という青春映画もある。なんだか明治維新のいいところは若いメンバーが情熱をもって、国を良くしようと本気で行動するところだと思う。そこに青春の香りが漂う。

 

井上馨は、グラバー商会から軍艦ユニオン号を購入する経験などを通じて、金勘定ができる珍しい志士であった。そのため明治維新後には、あれよあれよと大蔵省で権力を掌握し、辣腕をふるうことになる。そんな彼と“タテの信頼”を構築したのが、部下として仕えた渋沢栄一であった。

 

沢栄一は部下としても大変に仕事が出来たのは間違いない。この井上馨と深い信頼関係を構築できた事実で、それがわかる。それほどに井上馨は上司としては、結構大変なキャラであった!

 

なんといってもあだ名が雷親父である。大変に短気だったのだ。まぁ、若き日に大使館を燃やそうとするくらいなので、想像はつく。大使館を焼いた経験がある上司というのは、いかにもやりにくそうだ(全く想像つかないが)

 

渋沢栄一は、豪農の息子として生まる。その後徳川最後の将軍、徳川慶喜の幕臣となる。その縁もあり、28歳の時にパリ万博使節団の一員としてヨーロッパをまわる機会を得る。ここで近代的な産業に触れるのである。

 

大政奉還の後、徳川慶喜は静岡県に謹慎していた。帰国後、渋沢は静岡に赴き、慶喜から”今後は自由にせよ”との言葉を受け、静岡で独立をすることになる。この時、渋沢30歳。まさに“三十にして立つ”

 

そして独立して何をしたのかというと、静岡で商法会所を設立するのである。これはフランスで学んだ株式会社などのスキームを活用した金融商社であった。

 

この変わった独立に目を付けたのが、私の母校の創設者、大隈重信であった。“そんなところで変わったことをする能力があるなら、明治政府に出仕せよ”と来たわけである。最初、彼は大隈重信の部下となるのだが、喧嘩別れ。その後、渋沢を部下としたのが井上馨であった。

 

の信頼という意味で、井上=渋沢は非常に良い関係であった。“雷親父”に対して、渋沢のあだ名は“避雷針”である。短気な井上も渋沢には怒らなかった。これは渋沢さん、相当できる部下とみた。井上は渋沢を右腕としてものすごく信頼していたのだ。

 

私は幸に格別叱らるゝ事も無かつたから他の人々も珍らしく思ふて、日露戦争後、東京の銀行家が三井集会所に集つた時、侯も出席されて公債発行の事に就て種々評議の際に、第百銀行の池田君が、「雷のある以上は、避雷針が無ければならぬ」といふて、私を顧みて一笑した事があつた。

『竜門雑誌 第329号 故井上侯を憶ふ(青淵先生)』,大正4年

 

井上の女房役として、渋沢は多くを学び、また周囲からは避雷針として頼りにされていったのだろう。二人の縦の信頼が強いエピソードは、上司部下の終わりにも見られた。1873年、政治上の対立があり井上は退官をする。その時、渋沢も一緒に辞めるのである。

 

の協調が発揮されたのはその後である。二人は民間に出た後も連携を続ける。井上は退官したものの盟友 伊藤博文の説得もあり、政治の世界に復帰をする。しかし、渋沢はついぞ戻らず民間で活躍をすることになる。

 

まず独立して行った大きな仕事は、第一国立銀行の頭取である。日本最古の銀行にして、現在のみずほ銀行である。(この系譜もあり、みずほの金融機関コードは0001になっているのだ)

 

頭取で安泰ということは全くなく、就任早々に大変な事態が起きる。銀行が多額の貸付をしていた小野組が1874年に倒産してしまうのである。

 

小野組は、今でこそ名を知られていないが、一時は三井を凌駕するほどの豪商であった。これは渋沢にとっては大変なことで、ここでのかじ取りを失敗していたら、日本最古の銀行は今とは違う歴史を刻んでいただろう。渋沢は相当に悲嘆を感じたと思う。

 

そこにひょいっと現れ「よし、飯でも行くかぁ」と来たのが元上司、井上である。

 

私の特に忘れられぬのは侯の親切心の深かつた事である。(略)小野組が破産すべき悲境に陥つた時、一日侯は突然私の宅に訪ねて来られ、共に飯を喰ひに行かぬかと誘はれた。其頃侯とは毎々料理屋などに出入りして重要の案件をも協議したことがあつたから、其日も誘はるゝ儘、何気なしに山谷の八百善へ行つた。四方山の話をしながら夕飯を仕舞つた。

 

侯は膝を進めて、「時に小野組が大分危い様子だが、一体銀行から貸出してある金に対しては如何いふ処置を取る了簡か、独り君の前途に関係するばかりでなく、財界の為に心配の次第である。創立したばかりの第一国立銀行が若しも蹉跌する様なことになると、将来の起業に非常なる影響を来す訳である。実に此件に就て君の所存を聞度い為めに、態と此処まで来て貰つたのである」。と言はれた。余は真に其厚意に感激した。

 

(略)小野組との示談は整つて居るが未だ三井組との交渉が出来て居らぬ。」といふと、侯は「宜しい。三井組の方は僕から話してやらう。」と曰はれて、其難関も予定通りに決了して、案外小事件として切り抜けることが出来た。若し此時に侯の親切な言葉が無かつたならば、当時の第一国立銀行はどうなつたか判らない程である。

『竜門雑誌 第329号 故井上侯を憶ふ(青淵先生)』,大正4年

 

井上はただ食事に誘うだけでなく、渋沢がまだ交渉できていなかった三井組に対する交渉も代わりにやってあげたのである。職場を辞め、民と官とで職場が変わった後も、横の連携でつながっていたことがわかる。二人の関係をみると、むしろ職場を離れてからこそより本格的に関係が深くなったように思う。

 

もう役職の上下ではないのだ。互いに信頼し合っている上司と部下というのは、職場を離れたあとも何だかんだで横で連携していく。今も昔もそこは変わらないようだ。

 

の危機を乗り越え、1886年から“企業復興”が起こる。これが日本近代における最初のベンチャーブームだ。ここから先において、我々のよく知る日本資本主義の父、渋沢栄一の更なる活躍がはじまるわけだ。良き上司と部下の関係の系譜がぐるぐるとまわって、今のベンチャーブームにもつながっていると思うと感慨深い。

 

そして私は日本橋にベンチャーを産み出そうという仕事についている。これも何かの縁であろう。今朝、この渋沢栄一が新一万円札に選ばれたと聞いた。また日本橋に名所が出来たのだな、と嬉しく思った。

 

お札に選ばれるほどの偉人というとずいぶん遠くに感じるが、彼にも新人時代があり上司もいて、いろんな経験を経て大きなことを為したのだ。

 

さて、今日も起業家と日本橋で面談しようっと。

蒸気に火を灯したのは誰か? -投資家と起業家の理想の関係ー

の最近のマイブームは産業革命である。別に比喩ではない。あの18,9世紀のイギリスの産業革命である。縁あって私は先端技術に触れられるイノベーティブな世界の末席に座っているのだが、個人的な趣味は埃をかぶった歴史を眺めることである。産業革命くらい近代史になると、今の仕事にも関連することが増えてくる(のかなぁ、なかなか、これがどうして)

 

さて、私は新卒で当時NIF(ニフ)と呼ばれていた老舗ベンチャーキャピタル(VC)に入社した。そもそも当時新卒を募集していたVCは、NIFの他にJAFCO、JAIC、東京中小企業投資育成など数社しかなかった。隔世の感がある。自身がベンチャーキャピタリストであったことあり、投資家と起業家の関係性についてぽわぽわと考えることがある。

 

そんな中、埃をかぶった先に、私の思う理想の投資家と起業家の関係を構築したチームを発見した時は嬉しかった。その素敵なチームは互いに財産を築いただけでなく、世界に産業革命というひとつの時代を残したのである。素晴らしい!

 

まず起業家の名前は非常に有名である。意識されることなく、いまだに世界でもっとも名前が呼ばれている起業家なのではないだろうか。名前を呼ばれている回数でいったら、スティーブジョブズ、ビルゲイツ、エジソンよりも多いかもしれない。なぜから彼の名は電力の単位W(ワット)となってしまったからである。単位になる起業家は少ない。1兆円企業を創るより難しい。最近だとGoogle創業者のラリーペイジが”ページランク”の語源になったのが近いのだろうか。

 

ェームズ・ワットは効率的な蒸気機関を作った起業家であり、産業革命そのものを象徴している。彼は1736年スコットランドの船大工の息子として生まれた。この時代の職業観はまだほとんど中世である。ガチガチのルールに縛られていた。彼は技術者として働こうと思ったものの、ギルドが求めていた7年以上の修行を終えておらず、一人前に働くことが出来なかったのだ。これで彼はずいぶんと困った。

 

歴史に触れ面白いのは、点と点が線に面にと繋がっていくことである。産業革命は技術革新だけでなく、資本主義という巨大な思想も生み出したが、この資本主義の生みの親の一人も、偶然スコットランドにいたのである。

 

彼の名はアダム・スミス。

 

当時、34歳にしてアダム・スミスはグラスゴー大学で教授として教鞭をとっていた。このアダム・スミスこそ、困っていた21歳のジェームス・ワットに仕事を斡旋したといわれている。産業革命に偶然あり。二人の偉人が同じ大学に同時期に一緒に働いているのである。ワットは、このグラスゴー大学の職(大学で実験器具の修理)で、効率的な蒸気機関を作るきっかけを得ることになる。我々も職場のチームメンバーとは仲良くしようではないか。何がどう歴史的に繋がるかわからない。

 

ちなみにアダム・スミスにはあまり有名ではないエピソードがある。なんと彼は幼少時に誘拐されているのだ。誘拐したのはスリの連中であった。彼らはアダム・スミスをスリに育成すべく頑張ったのだが、あまりにもアダム・スミスが内向的な性格で諦めて解放されている。もしアダム・スミスがスリとして育ったとしたら、別の意味で“見えざる手”を活用し、ロンドン中の財布を得ていたことであろう。

 

て、ワットは偉人であったが、このコラムを読む多くの起業家と同じで、溢れるアイデアと実行力、そして足りない資金に、多すぎるライバルという課題を抱えていた。

 

名古屋の明治村に”横形単気筒蒸気機関”なるものがあり、眺めたことがあるが、まぁ、いかにも大きい。ドーンと鉄の塊である。ワットはこのような物理的にそれなりに大きいモノを製作しなければならなかったし、とにかく大量の特許を取得する必要もあった。そう必要なのは、とにかくお金だ。

 

そんな彼に最終的に投資をしたのが、マシュー・ボールトンである。彼こそ、ワットを生涯かけて支援した人物だ。マシュー・ボールトンはバーミングハムの金属製品業者として、成功した事業家であった。

 

理想の投資家の条件というものがあるとすれば「①事業を経験したことがある」をクリアしている。

 

そしてここからが凄い話だが、彼はこの時代に、コミュニティの力を深く理解していた。彼はコミュニティをもっていたのだ。彼のコミュニティこそ(私の中で)有名な“ルナー・ソサエティー”である。

 

定期的にボールトンの家には、起業家、作家、科学者がワイワイと集い夜遅くまでディスカッションをした。唯一の問題は帰りが遅くなると、客人が帰りにくくなることだけである。なんといってもまだ夜道に電灯がないのである。そこで、いつしか夜道が明るくなる満月の夜だけ開催されるようになったのである。後に歴史学者は、このコミュニティを“満月”の“ルナー”のソサエティと呼ぶようになる。

 

理想の投資家の条件「②自前のコミュニティを持って起業家を育成できる」といったところか。

 

ットには資金だけでなく、刺激的なコミュニティまで用意されたのだ。このコミュニティはメンバーが非常に豪華で、有名なところではチャールズ・ダーウィンの祖父にあたるエラズマス・ダーウィン、陶器のジョサイア・ウェッジウッド、緩やかなつながりという意味では政治家、物理学者、気象学者のベンジャミン・フランクリンなども関与している。

 

(ちなみにこのコミュニティがきっかけで、進化論のダーウィンが結婚した相手はウェッジウッド家のお嬢様となった。そのため、私はウェッジウッドのお皿を見ると、ダーウィンを思い出す。この夫婦には微笑ましいエピソードがあるので、いずれ機会があれば別の機会にて)

 

ットはずいぶんこのコミュニティで刺激を受けたのではないだろうか。このコミュニティ自体は実務派のボールトンと理論派のダーウィンがはじめたもので、一緒に仲良く共同研究などをしているうちに仲間が増え、満月の夜にボールトンの家でワイワイとやるようになって大きくなっていった。

 

私も起業家のコミュニティが非常に身近にあるのでよくわかるが、良いコミュニティは利害でなく、好奇心がある人達がワイワイしているうちに大きく広がるものである。現代の起業家コミュニティも、産業革命時のコミュニティも、重要な根っこは一緒のようだ。

 

ボールトンとワットは後にボールトン・アンド・ワット商会を設立する。今の投資家にこれを求めるのは(時代背景も違い)酷だが、条件③「ポートフォリオでなくパートナー」として、25年間にわたって協力関係を築くことになる。この支援は徹底しており、ボールトンはワットの特許を守るために、議会まで乗り込み特許の延長まで実現している。それに何と言ってもボールトンがワットに次々と優秀な職人を紹介したお陰で、ワットの実験は成功することが出来たのだ。

 

ボールトンは投資家としてヒト・モノ・カネ・情報の全てを提供したからこそ、ワットは得意分野に専念することが出来た。この二人の理想的な関係により、二人は成功を手に入れ、人類は産業革命を手に入れたのだ。

 

らは日本ではほぼ認知されていないが、イギリスはこの投資家と起業家の理想の関係を高く評価し、初めて二人の肖像画を入れた紙幣を発行した。今のイギリスの50ポンドを手に入れる機会があれば、是非眺めて頂きたい。まさに、人類史に残るイノベーションを支え合った二人を記念するに相応しいと思う。

 

成功した後、ボールトンはよほどワットの蒸気機関に誇りを持ち、嬉しかったに違いない。わざわざ工場の見学ツアーを開催し、ワットの発明品を見に来た人にこのように話をするのであった。

 

“では世界中が求めるものをここにお見せしましょう、POWERを!”

 

支援先のイノベーションを喜々として、来る人々に自慢したのだ。条件④「起業家とその事業を愛する」姿がなんとも微笑ましい。この"I sell here, sir, what all the world desires to have – power "であるが、この言葉もまた50ポンドに印字されている。