Maroizm

プロトスターCEOのコラム

縦の信頼、横の協調 -良い上司と部下の関係-

Clipニホンバシビルに普段いるのだが、ここから東京駅周辺に用事があるときは、歩いて向かうことが多い。なんといっても散歩が趣味なのだ。(そう言うと凄くポケモンGOを勧められる)

 

そういうことで、日本橋から東京駅にとぽとぽと歩くわけだが、ルートとしては日本橋を渡らず、三越本館と三井本館の間を通って日本銀行の正面まで歩く。そのまま江戸桜通りを進み常盤橋を渡ると、今回の主人公の銅像がそびえ立っている。なぜここに彼の銅像があるのか、と前々から疑問であった。そして仕事柄、彼の銅像が近くにあるというのは縁起がいいもんだなぁ、と思っていた。

 

そう、渋沢栄一である。

 

日本における資本主義の父として、彼は500以上の会社の創設に関わっている。日本の起業家で大小合わせて彼の影響を受けていない人はほぼいないだろう。本当に凄いことだ。キャピタリスト的観点で考えても、個人で生涯に500以上の会社の創業に関わるなんて、想像が出来ない。

 

というか、実際どのようにして可能にしたのだろうか?どういうスキームなのだろうか?何からスタートしてどのように進めたのだろうか?どうも実務的な部分が気になってしまう。そのくらい大きなことを成し遂げているのだ。そもそも彼を教えた上司などがいたのだろうか。部下が渋沢栄一?全くイメージがつかない。

 

んな渋沢栄一を部下に持った上司から話を進めたい。上司の名前は、井上馨(かおる)。明治維新の志士である。個人的にはあまり志士というイメージは薄めで、どちらかというと大蔵大臣のような財務家のイメージが強い。それに、そもそもそんなに有名でも人気でもない。ただ彼の明治における財務全般に与えた影響は無視できないほど大きい。

 

井上馨は、長州藩出身である。山県有朋など苦労の末に立身出世という志士が多い中、彼は生まれがよく、エリート武士の家系であった。そういうこともあってか松下村塾では学ばず、藩校明倫館で学んでいる。(昨年、運がよいことに両方とも実際に見に行く機会があった!)さて、そんな彼が歴史に名を残す最初の出来事は、大使館の焼き討ちである。(まぁ、なんとも過激な)

 

この時、27歳。イギリス大使館焼き討ち事件のリーダーは、革命家こと高杉晋作。そして井上馨と共に実際に大使館に火をつける役目となったのが、後に初代総理大臣となる伊藤博文である。伊藤博文がこの時22歳。二人は年齢が近いこともあり、盟友になる。(経験上、火のついたプロジェクトを共にするとメンバーと仲良くなる。火をつけるプロジェクトでも仲良くなるようだ)

 

二人はその後、皮肉なことに焼き討ちした相手国であるイギリスに密航することになる。ここでも伊藤博文と一緒であった。(船内では、焼き討ちした先に密航することになるとは思わなかったよなぁ、的な会話をしたのは間違いない)

 

この密航の時期を描いた“長州ファイブ”という青春映画もある。なんだか明治維新のいいところは若いメンバーが情熱をもって、国を良くしようと本気で行動するところだと思う。そこに青春の香りが漂う。

 

井上馨は、グラバー商会から軍艦ユニオン号を購入する経験などを通じて、金勘定ができる珍しい志士であった。そのため明治維新後には、あれよあれよと大蔵省で権力を掌握し、辣腕をふるうことになる。そんな彼と“タテの信頼”を構築したのが、部下として仕えた渋沢栄一であった。

 

沢栄一は部下としても大変に仕事が出来たのは間違いない。この井上馨と深い信頼関係を構築できた事実で、それがわかる。それほどに井上馨は上司としては、結構大変なキャラであった!

 

なんといってもあだ名が雷親父である。大変に短気だったのだ。まぁ、若き日に大使館を燃やそうとするくらいなので、想像はつく。大使館を焼いた経験がある上司というのは、いかにもやりにくそうだ(全く想像つかないが)

 

渋沢栄一は、豪農の息子として生まる。その後徳川最後の将軍、徳川慶喜の幕臣となる。その縁もあり、28歳の時にパリ万博使節団の一員としてヨーロッパをまわる機会を得る。ここで近代的な産業に触れるのである。

 

大政奉還の後、徳川慶喜は静岡県に謹慎していた。帰国後、渋沢は静岡に赴き、慶喜から”今後は自由にせよ”との言葉を受け、静岡で独立をすることになる。この時、渋沢30歳。まさに“三十にして立つ”

 

そして独立して何をしたのかというと、静岡で商法会所を設立するのである。これはフランスで学んだ株式会社などのスキームを活用した金融商社であった。

 

この変わった独立に目を付けたのが、私の母校の創設者、大隈重信であった。“そんなところで変わったことをする能力があるなら、明治政府に出仕せよ”と来たわけである。最初、彼は大隈重信の部下となるのだが、喧嘩別れ。その後、渋沢を部下としたのが井上馨であった。

 

の信頼という意味で、井上=渋沢は非常に良い関係であった。“雷親父”に対して、渋沢のあだ名は“避雷針”である。短気な井上も渋沢には怒らなかった。これは渋沢さん、相当できる部下とみた。井上は渋沢を右腕としてものすごく信頼していたのだ。

 

私は幸に格別叱らるゝ事も無かつたから他の人々も珍らしく思ふて、日露戦争後、東京の銀行家が三井集会所に集つた時、侯も出席されて公債発行の事に就て種々評議の際に、第百銀行の池田君が、「雷のある以上は、避雷針が無ければならぬ」といふて、私を顧みて一笑した事があつた。

『竜門雑誌 第329号 故井上侯を憶ふ(青淵先生)』,大正4年

 

井上の女房役として、渋沢は多くを学び、また周囲からは避雷針として頼りにされていったのだろう。二人の縦の信頼が強いエピソードは、上司部下の終わりにも見られた。1873年、政治上の対立があり井上は退官をする。その時、渋沢も一緒に辞めるのである。

 

の協調が発揮されたのはその後である。二人は民間に出た後も連携を続ける。井上は退官したものの盟友 伊藤博文の説得もあり、政治の世界に復帰をする。しかし、渋沢はついぞ戻らず民間で活躍をすることになる。

 

まず独立して行った大きな仕事は、第一国立銀行の頭取である。日本最古の銀行にして、現在のみずほ銀行である。(この系譜もあり、みずほの金融機関コードは0001になっているのだ)

 

頭取で安泰ということは全くなく、就任早々に大変な事態が起きる。銀行が多額の貸付をしていた小野組が1874年に倒産してしまうのである。

 

小野組は、今でこそ名を知られていないが、一時は三井を凌駕するほどの豪商であった。これは渋沢にとっては大変なことで、ここでのかじ取りを失敗していたら、日本最古の銀行は今とは違う歴史を刻んでいただろう。渋沢は相当に悲嘆を感じたと思う。

 

そこにひょいっと現れ「よし、飯でも行くかぁ」と来たのが元上司、井上である。

 

私の特に忘れられぬのは侯の親切心の深かつた事である。(略)小野組が破産すべき悲境に陥つた時、一日侯は突然私の宅に訪ねて来られ、共に飯を喰ひに行かぬかと誘はれた。其頃侯とは毎々料理屋などに出入りして重要の案件をも協議したことがあつたから、其日も誘はるゝ儘、何気なしに山谷の八百善へ行つた。四方山の話をしながら夕飯を仕舞つた。

 

侯は膝を進めて、「時に小野組が大分危い様子だが、一体銀行から貸出してある金に対しては如何いふ処置を取る了簡か、独り君の前途に関係するばかりでなく、財界の為に心配の次第である。創立したばかりの第一国立銀行が若しも蹉跌する様なことになると、将来の起業に非常なる影響を来す訳である。実に此件に就て君の所存を聞度い為めに、態と此処まで来て貰つたのである」。と言はれた。余は真に其厚意に感激した。

 

(略)小野組との示談は整つて居るが未だ三井組との交渉が出来て居らぬ。」といふと、侯は「宜しい。三井組の方は僕から話してやらう。」と曰はれて、其難関も予定通りに決了して、案外小事件として切り抜けることが出来た。若し此時に侯の親切な言葉が無かつたならば、当時の第一国立銀行はどうなつたか判らない程である。

『竜門雑誌 第329号 故井上侯を憶ふ(青淵先生)』,大正4年

 

井上はただ食事に誘うだけでなく、渋沢がまだ交渉できていなかった三井組に対する交渉も代わりにやってあげたのである。職場を辞め、民と官とで職場が変わった後も、横の連携でつながっていたことがわかる。二人の関係をみると、むしろ職場を離れてからこそより本格的に関係が深くなったように思う。

 

もう役職の上下ではないのだ。互いに信頼し合っている上司と部下というのは、職場を離れたあとも何だかんだで横で連携していく。今も昔もそこは変わらないようだ。

 

の危機を乗り越え、1886年から“企業復興”が起こる。これが日本近代における最初のベンチャーブームだ。ここから先において、我々のよく知る日本資本主義の父、渋沢栄一の更なる活躍がはじまるわけだ。良き上司と部下の関係の系譜がぐるぐるとまわって、今のベンチャーブームにもつながっていると思うと感慨深い。

 

そして私は日本橋にベンチャーを産み出そうという仕事についている。これも何かの縁であろう。今朝、この渋沢栄一が新一万円札に選ばれたと聞いた。また日本橋に名所が出来たのだな、と嬉しく思った。

 

お札に選ばれるほどの偉人というとずいぶん遠くに感じるが、彼にも新人時代があり上司もいて、いろんな経験を経て大きなことを為したのだ。

 

さて、今日も起業家と日本橋で面談しようっと。